その8 「現国」嫌いには、ワケがある
西欧文明をどんどん吸収し、必死で近代化の道を歩こうとした明治という時代。政治や経済、科学技術といった面だけでなく、文化面でもヨーロッパの思想や芸術を学ぼうと、当時の知識人たちは
でも、ひとくちに勉強といっても、並たいていの努力ではなかった。なにしろ、文明・文化・社会のあり方が大きく異なっているのだ。人間同士という共通項で理解できることもあったはずだが、やはり異質さにビックリすることの方がはるかに多かったにちがいない。日本の文化の中にはそれまで存在したことがないような思想が、ドッと押しよせてくるのだから、消化するどころか理解するだけでも死に物狂いだったろうと思う。
今なら、英語の本を読んでいてわからない単語に出くわしたら、辞書を引けば少なくとも、それが日本語のどういう言葉と対応しているのかはわかる。しかし、江戸末期から明治初期にかけての人たちは、まず辞書そのものを生みださなくてはならなかったのだ。
これも、具体的で簡単なものならば、まだいい。英語でfishというのが、日本なら魚と同じ意味だ、なんていうのは、まあ、すぐわかる。でも、たとえば、societyなどという抽象的な単語になると、この言葉に対応するなにかが、当時の日本には存在していなかった。だから、たとえ語学がものすごくできる人がsocietyという言葉が意味する概念を理解できたとしても、さて、その内容を日本のどういう言葉にあてはめればいいかといえば、一から考える必要があったのだ。
ということで、明治の知識人たちは、そうした新しい観念に対応する新しい言葉を創造していく道を選んだのである。そうやってできた言葉は、実は現代のぼくたちにとってとても重要な、というより欠くことのできない「日本語」として機能している。ここまで書いてきたこの文でも、「近代」とか「社会」(これがsocietyの日本語訳)とか「存在」といった単語を使っているけれど、これはみんな明治以前には、それこそ存在しなかった言葉なのだ。
新しい言葉を創って、それを自国語の中に導入していくという行為は、つまりは新しい自国語を創るということと同じである。ぼくたちのご先祖さまは、はるか昔、飛鳥奈良時代にも一度自分たちの「国語」を創造している。中国から漢字を輸入して、まずは
翻訳語という観点から、そのあたりのことを面白く見事に解説してくれている書物に、
ここに挙げられた言葉は、どれもおなじみだと思う。ちょっと気取った作文をするとか、歴史や公民の試験問題を読んだり、それに解答したりなんていう場合には、絶対欠かせない日本語だろう。
だが、この十語のうち最初の六つ、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」は、幕末から明治時代にかけて創られた新語、あとの四つ「自然」「権(利)」「自由」「彼」(「彼女」の方は新語)は、以前からあった意味が異なっている言葉に、新しい意味内容を与えたものなのだ。
今でこそ、「社会は法と秩序によって守られねばならない」なんていう文章を、誰もがさほど深い考えもなく書いてしまうし、読んだ人も、ふんふんたしかにその通り、などと考えてしまう。しかし、こんなどうってことのない文章が、日本語として成立するまでには、さまざまな試行錯誤があったのである。
本はともだち! 過去のテーマ
- その9 「言文一致」は落語から 「言文一致」というのは、まさしく読んで字のごとく、口で話している言葉と書き言葉の一致という意味だ。江戸末期から明治時代を通じて、この「話し言葉」と「書き言葉」を一致させようと多くの人たちがさかんに試行錯誤をしてきた。「言文一致運動」と呼ばれるその努力の甲斐あって、現在ぼくたちが使っている文章形式=「口語体」ができあがったのである。
- その8 「現国」嫌いには、ワケがある 西欧文明をどんどん吸収し、必死で近代化の道を歩こうとした明治という時代。政治や経済、科学技術といった面だけでなく、文化面でもヨーロッパの思想や芸術を学ぼうと
- その7 差別を見すえる 政治思想家・教育思想家として後世にとても大きな影響を与えたルソーは、同時に小説家であり音楽家でもあった。特に小説については、『ジュリまたは新エロイーズ』という十八世紀を代表する超ベストセラーを書いたし、そもそも教育思想書扱いされる『エミール』だって、エミールという孤児を主人公にした小説仕立ての構成になっているのだ。
- その6 自由・平等・友愛 野心あふれる若者と年上の上流夫人。ふたりの燃えさかる悲劇の恋。フランス恋愛小説の歴史のなかでも、スタンダールの『赤と黒』が一、二を争う熱情に満ちた作品だというのが、前回の話だった。
- その5 「マザコン」の正しい使用法 「親」問題、とりわけマザコン問題については、夏目漱石にかぎらず、多くの近代日本作家が悪戦苦闘している。たとえば、漱石と並び称される、でも、最近読んでいる人をあんまり見かけない文豪・森鷗外さんも、そのひとり。
- その4 「親」って、ホントに重くて困る いくつか例外はあるけれど、ひとつの小説は、ひとりの作者によって最初から最後まで書かれることになっている。それが、今から四百年近く前にヨーロッパで生まれた近代小説の、基本的ルールだ。
- その3 『坊っちゃん』て、ほんとに痛快か? 前回、『宝島』の主人公ジムや『ONE PIECE』のルフィには、「大胆」「無鉄砲」「一本気」といった形容がピッタリあてはまる、と書いた。
- その2 オレたちゃ海賊、ヨー、ホッ、ホー! 何千年もの昔から、海賊はこの世に存在したし、もちろん、今だって世界各地で出没中だ。だから当然、古今東西いろいろな物語や歴史書に、何千年も前から海賊たちは登場しまくっている。
- その1 無垢、友情、そして不屈! 若い人たちが「読みにくい」とか「なんか苦手かも」と"感じそうな"古い本(いや、そういう本こそ好みだ、という人もいるだろうけど)も、ちょっとしたヒントや読み方のコツ、ゴシップっぽい知識があれば面白く読めるんだよ、ほらね。そんな風な、結構おこがましい説教オジさん的スタンスで、ぼくは2011年度新学期から始まるこのウェブ連載を書こうと思っていた。







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